こころの専門家はいらない?

 

「こころの専門家はいらない (2002)」という本を読了しました。

初め、このタイトルにドキッとしながら、読み終えた今、色々な思いが湧いてきました。

私自身、10年ほど前に、臨床心理学を学び始めてから、心の世界の奥深さに魅了され、この領域に夢中になりつつも、どこかこの「心理」の領域への「違和感」のようなものも抱いていたのです。

この本の中では、「こころの専門家」へのいつくかの問題提起がなされています。

カウンセリングの枠組み自体が、上下関係をはらみ、管理的なものになることへの危惧。

心理的な問題が、「個人」の悩みに還元されやすく、環境や社会とのつながりが薄くなっていること。

精神症状=治されるべきもの、社会への「適応」へ導かれるべきもの、という考え自体が、恣意的・管理的なものであるということへの疑問・・などなど、問題提起は多岐にわたります。

そして、「こころの問題」を、「こころの専門家」が囲い込むのではなく、古くからあったような、コミュニティでの横のつながり、自然な縁、「なじみの関係」の中で、ケアしてゆくことの重要性へ、と論はすすんでいきます。

なるほど、その通りだなあ。私自身が、「心理」の領域で違和感を感じていた部分は、こういうことからも来ていたのかもしれない・・と、読後に、数年来の違和感に言葉を与えてもらったような、嬉しいような感覚がありました。

そして、それと同時に、いや、でも、だからこそ、これからの時代にもやはり、何らかの形で「こころの専門家」は大事なものだろう。という思いとの、両方が湧いてきました。

 

時として、「専門家」であること自体、多くは無意識的に、上下関係を生むこと、管理的になる可能性を孕んでいます。ゆえに、「こころの専門家」は、自身の関わりが、何らかの暴力性をはらむ「可能性」があることを、常に自覚し、意識的になることはとても重要だと思います。そして、自身の拠って立つ、「心理的援助」の枠組みが、本当はどういうことをしているのかを、常により大きな目で問い直すことも。

一方で、残念ながら、あまりにも個人化がすすみ、もう以前のように素朴な「地域での自然なつながり」のようなものが、希薄になっている今の世界では、「つながり」のあり方の一つとして、そして、こころの問題を一緒に考え・感じ、変容してゆく場を提供するものとして「こころの専門家」はとても必要なものである、とも思います。

その存在は、人工的であっても、今の社会にとっては、本当に大切なリソース(資源)の一つ。

しかしもっと遠い未来に、「こころの癒し」は、どんな風に捉えられているのでしょうか・・・。もしかしたら「こころの専門家」なる者はいなくなり、「こころの癒し」というものが必要であれば、みんな自前でしている世界になっているかもしれない・・・などと夢想します。
それは、個人が、自分の力で癒しを日常で実践してゆく世界。そしてコミュニティの中でそれを共有してゆく世界・・・。
そうなったら、いいなあ。

 

でも、今の私にできることは、私自身が感じてきた、この臨床心理学という領域への「違和感」も大切に抱えつつも、その光の面も決して捨ておかないこと。

自分なりに、今の社会にとってリソースとなる「こころの専門家」としてのあり方を、これかも真摯に模索してゆくことを、もう一度、しっかり自分の心に誓いました。

 

(文献)こころの専門家はいらない 小沢牧子(2002)洋泉社

 

地球のお母さん。