「ありのまま」でいるには? − ユングの「ペルソナ」と自然体

「ありのまま」という言葉は、最近、色々な所で良く見かけます。

映画、「アナと雪の女王」でも、エルサは歌います。

ありのーままのー自分になるのー♪

感動的な瞬間です。

 

 

 

 

自分の「魔法」を隠していた苦しみから、「本当の自分の姿」へと解放されるエルサ。

美しい瞬間です。

「ありのままの自分になることが、癒し。」

そんな言葉も、本屋さんでよく見かけるようになりました。

「ありのまま」に、「自然体」になれたら、すばらしい。本当にその通り・・。

 

でも・・いったい「ありのまま」って、どうしたらなれるの?

そもそも、「ありのまま」って一体何だろう?

 

そんな声も聞こえてきます。

「ありのまま」という言葉には、どうも一筋縄ではいかないところもあるようです。

 

<「ありのまま」だった赤ちゃんの頃>

生まれた時には、私たちは自然そのもの。

赤ちゃんは「ありのまま」で、生まれてきます。

食べたい時に食べ、欲しい時にもらえなかったら泣く。

本能的な、「 WANT ! (〜したい)」の欲求に従うのみ。

 

そしてそこから、様々な条件付が起こってきます。

お母さん、お父さん。家族。先生。友人。国。社会から・・・

「こうすべき」

「こうしたら、愛される」

「こうしないと、あなたは愛されない」

 

知らず知らずのうちに、外側から様々なメッセージを取り込み

私たちは、次第に「本当の自分」「ありのまま」という輪郭を、隠すことも学びます。

 

大人になる、という過程においては、赤ちゃんのときのように

「〜したい」という、自然な欲求を直接表現していた、「ありのまま」の姿から

少しずつ、自分を守るために、色々な「鎧」や「仮面」を身につけ、

「こうすべき」

「こうあるべき」

という自分を作っていく、ということも、起こっていきます。

 

それは、親や権威者に表される、「社会」への

適応のためにつくられていくもので、

ある意味、生きていくために必要な「守り」でもあるのです。

 

<ユングにとっての「ペルソナ」>

ユングという心理療法家は、社会適応のためにつけている、仮面のことを、「ペルソナ」と呼びました。

「ペルソナ」とは、古典劇で使われる「仮面」という語から来ているそう。

たとえば、私たちがつける仮面には、色々なものがあります。

「いい人」というペルソナ。「従順な娘」というペルソナ。「会社員」というペルソナ。・・・

そのペルソナ=仮面自体は、悪いものではありません。

ユングは、「ペルソナを持っていること自体は、問題ではない。

問題になるのは、その仮面が固くなり、その人と一体化してしまっている時だ」と語りました。

たとえば、「いい人」というペルソナを持っていて、あまりにも「自分=いい人」となってしまい、

それ以外の選択肢がなくなってしまうような場合。

そういう時、そのあり方は、問題になってきます。

なぜなら、その人の他の側面(たとえば「悪い人」の側面など)は、意識されない場所(=影、無意識)へと追いやられてしまい、

「悪い人」が、他者へ投影されるなど、意識がせまくなり、偏りが起こってくるからです。

 

 

 

 

 

 

<「ペルソナ(仮面)」との付き合い方>

では、人はこの、「ペルソナ」と、どんな風に関係を結んで行ったらいいのでしょう。

ユングは、

健康的なペルソナとの付き合い方は、「着脱可能」なものであるかどうか、が大事、と言いました。

つまり、「つけたり、はずしたりできる、自由がある場合、ペルソナも悪くない」のです。

成長した大人になると、様々なペルソナや、いわゆる「偽の自分」、「ありのままでない自分」がたくさんあるのは、自然なことです。

ただ、

そこから、どんな自分でいたいのか、選ぶ自由が、大人の意識にはあります。

その「自由」は、「自覚する(気づく)」ことから始まります。

今、自分は、どんな「ペルソナ(仮面)」をつけているのか?と、

それに、気づいていること。

そうすることで、それをつけ続けるのか、はずすのかを「選択する」という自由を、手に入れます。

私が最近思うのは、

仮面をつけた、「ありのままでない自分」に、「気づいている意識」もまた、

「ありのまま」の一形態なのではないか、ということです。

「仮面」だったり、「偽」の状態の自分にも気づいていること。

その「気づいている意識」こそ、選択する自由への入り口。それは、とても貴重な変化の始まり。

そんな風に思う、今日このごろです。

 

<「ありのまま」へ還る>

とはいえ、

生まれたての赤ちゃんのような、飾らない、無垢な「ありのまま」は、とってもパワフルです。

そこには、いのちの輝きがあります。

つまるところ、赤ちゃんのパワーを持った「ありのまま」とは、「自分の欲求(WANT)にすなおである」という状態に近いのかもしれません。

ゲーテは、「願望は、才能の予感」という意味の言葉を残しています。

どうしてか、湧き上がってくる「願望」、「〜したい」と願う心には、「才能(できる)」の予感がある。

「心やからだの底からの「〜したい(願望)」に従って動いてみると、

そこには、あなただけの「才能」、ギフトが輝いている。」・・・

そんな風にゲーテは言ってくれているように感じます。 とっても力強い言葉です。

 

私たちがこれまで自分に課してきた色々な「〜すべき」、制限などは、「他者」「外側」から取り入れたもの。

その「外側」に向いている意識に気づいたら、それを認めつつ、一度、ほーっと深呼吸してみましょう。

そして、今度は、自分の「内側」に意識を向けてみます。

内側からの「〜したい(WANT)」

という、欲求に従ってみることは、「ありのまま」、そしてあなたの「才能(ギフト)」へ近づく、第一歩。

そして、その「欲求」は、多くの場合、自分の「身体」から発されています。

「頭」のレベルではなく、自分の「身体(特にハート)」に気づくことは、その道を確かなものにしてくれます。

本当の「望み」につながる、「ハート」の知恵については、また別の記事で書きますね。

・・・・・

まとめると・・

*外側の「仮面」の自分も尊重し、今の選択に「気づいて」いること。

*そして、内側・身体からの「WANT (〜したい)」に気づいて、少しずつ叶えること。

こんなあり方が、成熟した「ありのまま」へ続く、道なのではないでしょうか。

 

千里の道も一歩から・・ということで、

私自身も、今日の晩のおかずは、何をたべたいのか・・・?

自分自身の身体にしっかりとたずね、

小さい WANT を、日常から叶えていってあげようと思います。